*日本の整形外科の黎明期 [#j4f7d7c4]

**明治以後の日本の骨関節疾患の医療 [#id6a5928]

明治に入り、日本は政府の富国強兵政策に伴って、科学的な西洋医学、特にドイツの医学を取り入れた。骨接ぎの術や怪我の手当ての法は、外科学にとってかわられた。

-1874 年 ( 明治 7 年 )、医制に関する 76 条 ( 内務省所管 ) 制定。
-1876 年 ( 明治 9 年 )、医術開業試験開始。

>医術を開業、営業するものはこの試験に合格しなければならなくなった。日本の医療は、西洋医学 ( ドイツ医学 ) 中心の医学となった。

-1883 年 ( 明治 16 年 )、医師免許規則公布、医術開業試験規則の改正。

>これまでに存在した産科、眼科、整骨科などの専門医は医師に統合された ( 歯科医は別 )。

-1885 年 ( 明治 18 年 )、" 入歯歯抜口中療治、整骨術営業者取締方 " ( 内務省通達 )

>明治 16 年に行われた医術開業試験に合格したものでなければ、いかなる医業も新規に開業できなくなった。
従来の接骨業者は、既得権者としての " 従前接骨業 " として、医師とは別に、道府県庁の規則で取り扱われるようになった。

-1891 年 ( 明治 24 年 )、東京府令第 58 号 " 入歯歯抜口中療治整骨営業者取締規則 "

>従前接骨業の業者 ( 古来からの骨接ぎ業者 ) は " 接骨科 " の営業を禁止され、骨接ぎ業者は激減した。

**整形外科の始まり [#md3b1391]

1906 年 ( 明治 39 年 )、東京帝国大学医学部に整形外科学講座が開設され、田代義徳教授が初代の教授に就任した。田代教授が " 之を束ね、これを支えそしてこれを正しうする " との意味で " 整 " という言葉を選び、また機能の正しいものは形も正しいとして、 Orthopaedie の日本語として " 整形外科 " という言葉を造った。

田代教授の言葉として伝えられているものを拾い上げてみる。

-形状の変化は運動の障害をきたし、また運動の障害は形状の変化を招く、形状と運動とは相相関して、はなるべからず、今オルトペヂィは主として骨格もしくは関節における形状の変化を生理的に復正して以て生理的運動を営為せしめんとするなり、ゆえに変形はオルトペヂィの主体なり、官能の改復はオルトペヂィの目的なり、形状正常にして初めて官能完全にして、官能完全にして形状生理的ならざるは少し。形の一字、この学科において欠くべからず。
-いわゆるオルトペヂィの学科の範囲に顧みて、原語に拘泥するをなさずして、遂に整形の 2 字を選出したるなり。
-なにおか整形外科という。曰くその発生の先天性と後天性とを問わず、原発性と継続性とに論なく、またその原因のいかんに関せず、骨格および関節が、その正常の形状と方向を変じ、その生理的の運動を誤れる場合において、これを討究して、その本態を明らかにし、これを類別してその系統所属を定め、これが予防および治療法を講ずる学科をいう。

同年、京都帝国大学にも整形外科学講座が設置された ( 松岡道治教授 )。

-1909 年 ( 明治 42 年 ) には、九州帝国大学に整形外科学講座が設置された ( 住田正雄教授 )。
-1911 年 ( 明治 44 年 )、県立愛知病院 ( 後の名古屋帝国大学医学部付属病院 ) に診療科としての整形外科が設置された。
-1917 年 ( 大正 6 年 )、新潟医学専門学校 ( 現、新潟大学医学部 ) に整形外科学講座開講 ( 本島一郎教授 )。
-1925 年 ( 大正 14 年 )、北海道帝国大学付属病院で整形外科の診療を開始。

**社団法人 日本整形外科学会の創設 [#ee98af78]

社団法人 日本整形外科学会は、1926年 ( 大正 15 年 ) に設立された。整形外科学に関する研究発表、連絡、提携および研究の促進を図り、整形外科学の進歩普及に貢献し、もって学術文化の発展に寄与することを目的とした。

**混沌の時代 [#n5e34a40]

法制度上は、明治 9 年から医師である接骨医 ( 後の整形外科医 ) が生まれ、従来の接骨業者と共存していたが、明治 24 年、医師でない接骨業者は巷間から消滅していった。日本の骨関節外傷や疾患 ( 運動器疾患 ) の医療は、既存の伝統的な医術から、ドイツ医学を主とする西洋医学を導入して、発展的に解消して行ったと言える。

明治期の整形外科医療に携わった医師達には、従来の接骨業者から転進した者、従来の接骨術を修得した者なども様々いて、整形外科医療のある部分には、従来の接骨術が残されていた。

東京都足立区千住の名倉家が有名である。

>名倉直賢 ( 1750 - 1827 ) が、1771 年 ( 明和 7 年 ) に骨接ぎの施術所を開業し " 千住の骨つぎ " として関東一円に名前が知られ、名倉は接骨術の代名詞であった。
>第 5 代、名倉謙蔵 ( 1866〜1939 ) は東京帝国大学別科を卒業し医師となり、1931 年 ( 昭和 6 年 ) 千代田区神田駿河台に、西洋医学を中心とした整形外科専門病院 " 名倉病院 " を開設した ( 現、名倉直秀院長 )。
>第 6 代、名倉重雄 ( 1894 - 1985 ) は東京帝国大学医学部を卒業後、診療科としての整形外科が設置されていた県立愛知病院 ( 後の名古屋帝国大学医学部付属病院 ) に赴任し、1927 年 ( 昭和 2 年 )、名古屋帝国大学医学部教授となり、整形外科学講座を開講した。
>千住の名倉家は、旧来の建物は名倉医院として現在は整形外科診療所 ( 名倉直孝院長 ) と、これに隣接した名倉整形外科 ( 名倉直良院長 ) になっている。
>これらとは別に、名倉弓雄医師が荒川区荒川に名倉病院を開設した。

整形外科医以外のほとんどの方はご存知ないかもしれないが、整形外科の医学教育、卒後研修、専門医のトレーニングには、日本古来の接骨術、日本の伝統的な骨接ぎの術などは一切関係しない。これは明治以来そうである。

また、現在、柔道整復を行っているという施術者の一部には、日本古来の接骨術、特に柔術の技術としての接骨術を踏襲する者もいると言われているが、ほとんどは整形外科医学のさわり、整形外科の技術のごく一部を用いて施術を行っている。柔道整復師養成のカリキュラム、柔道整復師国家試験の内容を見てもそうである。

**参考 [#o61573c3]

-[[名古屋大学整形外科学教室の歴史:http://ortho.med.nagoya-u.ac.jp/DATA/shoukai/70h1.html]]
-[[千住の名倉整形外科:http://homepage3.nifty.com/senjunonagura/]]
-[[名倉クリニック:http://www.nagura-cl.jp/]]



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